仙台赤十字病院のロビーには、国際赤十字の創設者であるアンリデュナンの像があります。アンリデュナンはスイスの実業家でしたが、1859年にイタリア独立戦争での北イタリアでソルフェリーノの戦いに遭遇し、その悲惨さに衝撃を受けたのを期に、戦争の負傷者を敵味方なく救護する必要性を訴え、赤十字社を創設した人物です。
赤十字社は1864年に設立されその後世界に広まっていき、アンリデュナンは1901年に初のノーベル平和賞を授与されています。
日本では、佐賀藩の生んだ七賢人のひとりといわれる佐野常民が、1867年にパリ万博に派遣された際に、会場で国際赤十字の組織と活動を見聞し感銘を受け、その後、西南戦争において日本赤十字社の前身となる博愛社を設立しました。
西南戦争は、1877年に西郷隆盛が維新後におこした士族による武力反乱であり、官軍、反乱軍の双方に両軍合わせて1万4千人という多数の戦死者を出しました。熊本市の北約10kmで、官軍と薩軍との大激戦が行われ、その地の名をとって田原坂の戦いと呼ばれています。
トムクルーズと渡辺謙の映画“ラストサムライ”は、この田原坂の戦いをモチーフにしたといわれています。当時、元老院議官の佐野常民は、傷病兵を救護するために、有栖川宮親王の許可を得て博愛社を設立し、敵味方なく戦傷者の救護にあたりました。これは1877年5月のことで、博愛社はのちに1887年に日本赤十字社に改称され、翌年の会津磐梯山の噴火では初の救護活動を行っています。日本赤十字社は、西南戦争の戦傷者を救護する目的で結成された博愛社をもとに設立されました。
仙台赤十字病院は、1924年(大正13年)10月18日に、日本赤十字社宮城支部診療所として、仙台市北一番丁に開所されました。この地は、宮城県庁とは北一番丁を隔てた外記丁通にあたり、現在は、自治会館となっている場所です。
初代院長は佐藤基です。1933年、三陸沖を震源とし死者行方不明者3064人をだした昭和三陸地震においても救護活動を行っています。1943年には仙台赤十字病院と改称し、内科、外科、小児科、眼科、耳鼻科、産婦人科、放射線科の150床となりました。しかし、1945年7月10日には仙台空襲により病院がすべて焼失したため、愛子国民学校ついで青根温泉に病院を移転しました。終戦により病院は仙台市内に戻ることになり、同年10月に東八番町(現在の仙台駅東口)の片倉製糸工場の一部を借用し病院を移転し、病床数100床の仮住まいとなりました。
清水小路はいまでこそ道幅が広く交通量の多い道路ですが、伊達藩時代は清水が流れる閑静な屋敷町でした。かつては五橋に湧出した清水が道の中央を広瀬川にむかって流れ、この地域の用水として用いられていたのが、清水小路の名の由来です。五橋にはこの清水をまたぐように五つの橋がかけられており、そのまま地名となっています。さらに用水は広瀬川方向に流れ(いまの新愛宕橋方向)、広瀬川の手前で左右にわかれ、土で盛った樋の中をながれ、この地が土樋と呼ばれる由来となりました。病院には藩政時代の清水小路の様子が残されています。
戦後、病院復興の気運が持ち上がるも、資金、用地に難渋しなかなか決まりませんでしたが、地元の請願運動により清水小路に移転する計画が持ち上がりました。
1956年(昭和31年)8月清水小路に建築中であった新病院が完成し、内科、外科、小児科、眼科、産婦人科、耳鼻咽喉科、整形外科、皮膚泌尿器科、放射線科、歯科の合計200床の病院として、仙台赤十字病院併設県立仙台病院として新たに再出発となりました。県立仙台病院は5年後には廃止され改めて仙台赤十字病院となりました。
病院予定地は、伊達家の家老山内氏が造園したとされる約三千坪の広大な日本庭園-清奇園-を有する大邸宅で呉服商の大内源太左ェ門氏の所有でありましたが、大内氏はなかなか売却に承諾しなかったと、地元住民の請願書に記載が残っています。その後、大内氏は庭園を保存するという条件で売却に応じたとされ、新病院は大きな池を中心にした庭園の外側を取り囲むように建てられました。現在は、仙台市福祉プラザが建っているが、庭園の一部はいまでも残されています。
病院はその後6階建ての病棟が増築され最終的には、消化器科、循環器科、呼吸器科を加え計307床の総合病院となりました。この頃より病院で出産をする人々が増え、当院の産婦人科でも多数の分娩が行われていました。
清水小路の病院が手狭で病院の発展性に障害となることから、移転先を求めている矢先、1975年に仙台市は市立病院を東二番町(現タワービル)から清水小路(旧三島学園)に移転する計画をあきらかにしました。近接地に二病院が併立するのは好ましくないとする仙台市は赤十字病院に移転を求めるとともに移転先を斡旋することとなりました。
移転先としては、市の南西部には、八木山団地が造成中であり、人口急増が予想されることと、この地区に総合病院がなかったこと、加えて地元住民からの誘致運動があがったことから八木山の市有地に移転が決まりました。1978年に用地を買収してから総経費84億円、3年9ヵ月を費やして1982年4月に女川浩院長のもと八木山での新病院が病床数415床でスタートしました。
新病院では、移転とともに県の支援を受け周産期医療に重点を置くこととなり、小児医療センターやNICU(新生児集中治療室)をあらたに開設しました。2002年には、東北では初の総合周産期母子医療センターを開設し特色ある医療を推進しています。当院では、内科とはべつに呼吸器科、循環器科、消化器科が清水小路時代より設置されており、専門性を重視した診療体制を行っていましたが、とくに整形外科は現在では宮城県屈指の症例数を誇っています。職員駐車場と病院地下は道路を横断する地下道で結ばれていますが、病院建設時に地下鉄駅建設を見越して工事を行ったものと伝えられています。
病床数は人口増加にあわせて、平成6年には、結核病床を含めて計484床まで増加しましたが、結核の治療の進歩により平成21年には結核病床を閉鎖し一般病床400床となりました。平成28年、一部を地域包括ケア病棟42床として開設し、計389床で運用しており、現在に至っています。
大正13年10月18日 | 仙台市北一番丁に日本赤十字社 宮城支部診療所開設、初代所長に佐藤 基 就任 診療科(内科、外科) |
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昭和8年3月3日 | 三陸地震のため、三陸沿岸地区に救護班を派遣 |
昭和15年1月1日 | 日本赤十字社 宮城県支部療院と改称 佐藤 基 療院長に就任 |
昭和16年4月1日 | 日本赤十字社 宮城支部仙台療院乙種救護看護婦療養所 設置 佐藤 基 所長を兼務 |
昭和18年1月1日 | 仙台赤十字病院と改称、佐藤 基 院長に就任 診療科(内科、外科、小児科、眼科、耳鼻科、産婦人科、X線科) 病床数150床 |
昭和20年3月15日 | 横須賀海軍病院 仙台赤十字病院と改称 |
昭和20年5月15日 | 柴田郡川崎村青根温泉に分院を開設 |
昭和20年7月10日 | 仙台空襲により病院建物・設備一切を焼失 宮城郡広瀬村愛子国民学校に病院を移転 |
昭和20年7月20日 | 青根分院に病院を移転 |
昭和20年9月15日 | 横須賀海軍病院の指定を取り消される |
昭和20年10月10日 | 仙台市東八番丁、片倉製糸工場に病院を移転、仙台赤十字病院と改称 診療科(内科、外科、小児科、眼科、産婦人科、耳鼻咽喉科、歯科、放射線科) 病床数100床 |
昭和22年3月31日 | 日本赤十字社 宮城支部仙台療院乙種救護看護婦養成所廃止 |
昭和23年9月22日 | アイオン台風による水害のため、鹿島台村に救護班派遣 |
昭和24年10月15日 | 日本赤十字社 社長 島津 忠承氏、病院視察 |
昭和25年8月4日 | 熱帯低気圧による水害のため、仙台市中島丁、閖上町、鹿島台村に救護班を派遣 |
昭和25年12月20日 | 生活保護法による医療扶助指定医療機関に指定される |
昭和26年10月1日 | 結核予防法による指定医療機関に指定される 児童福祉法による療育給付指定医療機関に指定される |
昭和27年2月1日 | 完全看護・完全給食の実施を承認される(指令第106号) |
昭和28年5月1日 | 第三次中華人民共和国帰還者輸送のため救護員を派遣 |
昭和28年7月13日 | 病床15床増床(病床数115床) |
昭和29年11月3日 | 仙台市清水小路に病院復興建設のため、起工式を挙行 |
昭和30年4月8日 | 在ソ邦人帰国輸送のため救護員を派遣 |
昭和30年9月18日 | 病院建設第一期工事竣工(外来診療を新病院に移転) |
昭和30年9月19日 | 整形外科、皮膚泌尿器科新設 |
昭和31年8月9日 | 病院建設落成式挙行(仙台赤十字病院併設県立仙台病院) 病床数200床 |
昭和31年9月25日 | 旧病舎を片倉製糸工業株式会社に返還 |
昭和32年5月6日 | 健康保険法による保険医療機関に指定される |
昭和33年10月18日 | 佐藤 基 院長退職 副院長 女川 浩 院長に就任 |
昭和33年10月29日 | 日本赤十字社名誉副総裁 秩父宮妃殿下病院御視察 |
昭和33年11月1日 | 前院長 佐藤 基氏に対し、仙台赤十字病院名誉院長の称号を授与される |
昭和33年11月12日 | 病床10床増設(病床数210床) |
昭和34年1月1日 | 国民健康保険法による療養取扱機関に指定される |
昭和34年4月1日 | 総合病院名称使用許可される(指令第6283号) |
昭和34年7月1日 | 労働者災害補償保険法による指定医療機関に指定される |
昭和35年1月19日 | 第五次朝鮮人帰還列車添乗のため救護員を派遣 |
昭和35年2月16日 | 集団赤痢発生のため、柴田郡村田町に救護班を派遣 |
昭和35年5月24日 | チリ地震津波のため、気仙沼市外2町に救護班を派遣 |
昭和35年11月1日 | ブラジル移住者健康診断指定病院に指定される アルゼンチン移住者健康診断指定病院に指定される |
昭和36年2月25日 | 優生保護法による優生保護指定医に指定される |
昭和37年5月29日 | 妊娠ドック実施病院に指定される |
昭和39年2月4日 | 新病棟(第三病棟)増築工事起工式を挙行 |
昭和39年12月17日 | 新病棟工事竣工/病床97床増設(病床数307床) |
昭和40年2月9日 | 母子保護法による養育医療指定医療機関に指定される |
昭和40年5月26日 | 新病棟落成式呼吸器科新設 |
昭和43年1月1日 | 消化器科、循環器科新設 |
昭和46年9月7日 | 病棟(第一病棟東)増築工事着工 |
昭和46年10月25日 | 病棟増築工事完了 |
昭和47年4月1日 | 麻酔科新設 |
昭和53年5月9日 | 更生医療指定医療機関(眼科に関する医療)に指定される 育成医療指定医療機関(眼科に関する医療)に指定される |
昭和53年7月1日 | 仙台市八木山の山林(61,209平方メートル)を仙台市より取得 |
昭和53年12月26日 | 救急告示病院に指定される |
昭和54年2月1日 | 新病院移転地(仙台市八木山本町二丁目)造成工事安全祈願祭を挙行 |
昭和57年3月20日 | 病院移転新築工事竣工 |
昭和57年4月13日 | 新病院に移転完了 |
昭和57年4月14日 | 新病院開院式、診療開始 病床数415床(一般361床、結核54床) 診療科(内科、呼吸器科、消化器科、循環器科、神経内科、外科、呼吸器外科、整形外科、皮膚科、泌尿器科、小児外科、小児科、産科、婦人科、眼科、耳鼻咽喉科、歯科、麻酔科、放射線科) |
昭和57年6月5日 | 日本赤十字社名誉副総裁 常陸宮妃殿下の御臨席を仰ぎ、新病院落成記念式典を挙行 |
昭和57年10月30日 | 病床数425床(一般371床、結核54床) |
昭和60年3月31日 | 院長 女川 浩退職 |
昭和60年4月1日 | 副院長 氏家 紀一、院長に就任 前院長 女川 浩氏に対し、仙台赤十字病院名誉院長の称号を授与される |
昭和60年9月13日 | 庶務課主事 見沢 泉 スーダン干ばつ被災者救援医療及び救護要員としてスーダン民主共和国へ派遣 (昭和60年9月13日~昭和60年12月14日) |
昭和61年8月4日 | 庶務課主事 見沢 泉 バングラデシュサイクロン対策事業への連絡調整員としてバングラシュ国へ派遣 (昭和61年8月4日~昭和62年2月3日) |
昭和61年10月1日 | 病床数435床(一般381床、結核54床) 看護婦 伊藤 てる子 ベトナム難民救護医療要員としてマレーシア国ビドン島へ派遣 (昭和62年9月22日~昭和63年3月21日) |
平成元年2月14日 | 看護係長 伊藤 てる子 アフガン難民救援医療要員としてパキスタン国へ派遣 (2月14日~8月16日) |
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平成元年4月4日 | 出納係長 見沢 泉 ネパール飲料水供給・保健衛生事業への連絡調整員としてネパール王国へ派遣 (平成元年4月4日~平成2年10月31日) |
平成2年11月 | 「人工透析室」にて人工透析開始(5床) |
平成3年1月16日 | 看護婦 伊藤 てる子 湾岸派遣日赤医療団の一員としてシリア・バーレーンへ派遣 (1月16日~3月29日) |
平成3年5月31日 | 院長 氏家 紀一 退職 |
平成3年6月1日 | 新院長 佐藤 寿雄 就任 |
平成3年8月1日 | 新生児特定集中治療室管理〔(新)第1号〕 |
平成3年10月1日 | 4週6休制導入 |
平成4年2月22日 | 看護婦長 伊藤 てる子 カンボジア医療協力事業にかかる代表団としてカンボジア国へ派遣 (2月22日~3月31日) |
平成5年8月7日 | 北海道南西沖地震のため北海道奥尻島に救護班を派遣 |
平成6年2月21日 | 南棟新築工事竣工 |
平成6年4月1日 | 完全週休2日制導入 |
平成6年6月27日 | 第二外科副部長 臼井 律朗 アフガン難民救援医療要員としてパキスタン国へ派遣 (6月27日~9月28日) |
平成6年7月22日 | 病床数484床(一般430床、結核54床) |
平成7年2月14日 | 阪神淡路大震災のため神戸市に救護班を派遣 |
平成7年3月31日 | 院長 佐藤 寿雄 退職 |
平成7年4月1日 | 新院長 手島 貞一 就任 |
平成8年6月 | 「人工透析室」を「腎センター」へ名称変更(18床+予備1床) |
平成9年3月31日 | 地域災害医療センター指定(災害拠点病院)〔(医療)第968号〕 |
平成11年4月24日 | 指定居宅介護事業所 |
平成12年4月14日 | 有珠山噴火災害救護活動のため北海道伊達市に救護班を派遣 |
平成13年9月1日 | オーダリングシステムの入院部門システム(検査・処方・給食)を導入(Medipack-ORDER) |
平成13年11月1日 | 病床数460床(一般430床、結核30床) |
平成13年11月1日 | オーダリングシステムに外来部門システム(検査・処方)を追加 |
平成14年3月31日 | 院長 手島 貞一 退職 |
平成14年4月1日 | 新院長 小山 研二 就任 |
平成14年4月1日 | 「総合周産期母子医療センター」指定 |
平成15年4月1日 | 病棟再編成:5A病棟25床を休止 |
平成15年7月27日 | 7月26日に発生した宮城県北部連続地震による災害救護活動のため、南郷町に救護班を派遣(延べ8日間に渡り、救護班 4個班 17名) |
平成15年8月11日 | 医療法改正(平成13年3月1日施行)による病棟区分見直し一般病棟430床、結核病棟30床 計460床 |
平成15年9月1日 | オーダリングシステムに注射オーダーを追加 |
平成15年10月19日 | 院長 小山 研二 逝去 |
平成16年1月1日 | 新院長 桃野 哲 就任 |
平成16年10月26日 | ・10月23日に発生した新潟県中越地震により長岡赤十字病院へ業務応援及び災害救護活動のため小千谷市へ救護班を派遣 ・業務応援(事務部主事1名)を長岡赤十字病院へ派遣(10月26日~10月30日) ・業務応援(看護部看護係長1名・看護師1名)を長岡赤十字病院へ派遣(10月29日~11月2日) ・救護班1個班を小千谷小学校へ派遣(10月30日~11月1日) |
平成17年8月16日 | 8月16日に発生した宮城県沖地震により仙台市泉区「スポパーク松森」へ救護班 1個班を派遣 |
平成19年4月1日 | 5A:520号室(個室1床)増 |
平成19年7月16日 | 新潟中越沖地震のため新潟県刈羽村へ救護班を派遣 |
平成19年8月1日 | 院内保育所「かるがもハウス」開設 |
平成20年3月1日 | 増築棟の稼働(許可病床数460床から438床へ変更) 整形外科・医局・事務部門・4B~7B病棟まで |
平成20年4月1日 | 病棟区分見直し 一般病棟408床、結核病棟30床 計438床 |
平成20年6月14日 | 平成20年岩手・宮城内陸地震のため栗原市花山へ救護班 1個班を派遣 |
平成20年6月18日 | 平成20年岩手・宮城内陸地震のため栗原市花山へ救護班 1個班を派遣 |
平成20年9月1日 | 病棟区分見直し(7A病棟と7B病棟を統合60床に変更) 一般病棟400床、結核病棟30床 計430床 (許可病床438床から430床に変更) |
平成21年12月1日 | 結核病棟廃止 病棟区分見直し(8A病棟と8B病棟を統合8階60床に変更) 一般病棟400床 合計400床 (許可病床430床から400床に変更) |
平成23年3月11日 | 東日本大震災により仙台医療センターへ救護班を派遣 |
平成23年3月12日 | 東日本大震災により石巻赤十字病院へ救護班を派遣 |
平成23年3月19日 | 東日本大震災により石巻赤十字病院へ業務支援のため薬剤師を派遣(3月19日~8月15日) |
平成23年3月25日 | 3月11日に発生した東日本大震災により石巻市へ石巻圏合同救護チーム本部支援要員を派遣(3月25日~6月14日) |
平成23年8月11日 | 3月11日に発生した東日本大震災により石巻市雄勝地区へ救護班 4個班を派遣(8月11日~9月16日) |
平成23年8月16日 | 地域医療連携室を新設 |
令和元年7月1日 | 開設者変更 変更前 日本赤十字社社長 近衞 忠煇 変更後 日本赤十字社社長 大塚 義治 |
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令和元年10月14日 | 台風19号災害により宮城県庁災害対策本部及び仙南保健所活動拠点本部へ救護班12班を派遣 (延べ53名 : 医師 12名 看護師 16名 薬剤師 4名 主事 21名 10月14日~10月20日) |
令和元年10月28日 | 台風19号災害により丸森町役場へこころのケア班7班を派遣 (延べ15名 : 看護師 11名 主事 4名 10月28日~11月8日) |
令和元年11月28日 | 地域医療支援病院認定 |
令和2年2月21日 | 新型コロナウイルス感染症により神奈川県コロナウイルス感染症対策本部へDMAT1隊を派遣 (医師 1名 看護師 1名 主事 2名 2月21日~2月27日) |
令和2年4月1日 | 教育研修推進室を設置 |
令和2年6月16日 | 標榜科を呼吸器科から呼吸器内科、消化器科から消化器内科、循環器科から循環器内科へ変更 |
令和4年3月1日 | 病棟区分見直し(6A病棟と6B病棟を統合し6階病棟に変更、4階A病棟をNICUとGCUに分離) 一般病棟389床 計389床 (稼働病床335床から301床、休床54床から88床に変更) |
令和4年7月1日 | 開設者変更 変更前 日本赤十字社社長 大塚 義治 変更後 日本赤十字社社長 清家 篤 |
令和4年7月1日 | アレルギー外来開設 |
令和4年8月22日 | 入院患者用Wifi設備導入 |
令和5年3月27日 | ホームページリニューアル |